2024年4月21日礼拝説教「幸せの定義」

 

聖書箇所:マタイによる福音書5章1~12節

幸せの定義

 

 本日の箇所は、多くの方にとってなじみ深いであろうと思います。けれども改めてその内容に目を向けますと、とても抵抗なく受け入れられるものではありません。仮に貧しい人々や悲しんでいる人々に、あなたはなんて幸せなのでしょう、と声をかければまず間違いなく怒るはずです。もちろん主イエスはそのような意味でこの箇所を語られたのではありません。けれども言葉の意味としては、とても抵抗なく受け入れられるものではない、ということをまず確認しておきたいのです。しかも誰かから「このような人々こそが幸せなのだ」と言われて幸せそのものを規定されることも、通常ならば心地良いものではありません。幸せは人それぞれ。自分の幸せの形は自分で決める。これが、世の中一般に言われていることではないでしょうか。この面でも、違和感があります。

 この違和感を理解するためには、主イエスがこの言葉を誰に語ったのかに目を向けることが大切です。それは主イエスのもとに来た群衆と弟子たちでした(1節)。この人々は、4章において主イエスに従った人々です。彼らは神以外の支配から解放されて、神のご支配である天の国に入った人々です。ですから今日の言葉決して天の国の外側にいる人々に、救われる条件として強制するようにして語られた教えではありません。主イエスは、自らに従う決心をして集まってきた人々に「これこそ幸せなのだ」と教えておられます。決して意思を無視した幸せの押し付けではないわけです。

 そうは言っても、この幸せの内容には戸惑いと抵抗感を感じます。それはある意味当然です。なぜなら我々はもともと天の国の外側にいたからです。そして今なお、天の国の外側が当たり前の世界で生きているからです。そこでは豊かであることが幸せであり、無病息災で生きることが幸福だと言われています。それでも柔和な人々、憐れみ深い人々、平和を実現する人々は称賛されています。しかしその一方で、戦争が起こり、泥臭い争いがそこかしこにあります。事実上、自らの心地よさを優先することが幸せであるという理解が、この世界のスタンダードではないでしょうか。しかし天の国のメンバーとなったあなたたちは、そうではない姿を幸せとして生きよと、主イエスは教えながら招いておられます。

 主イエスが招いておられる幸せの姿とはどのようなものでしょうか。まず取り上げたいのが、「心の貧し人々」です。その意味については必ずしも明確ではありません。歴史のなかでもこの理解については様々な意見がありました。そのなかでおおむね受け入れられてきたのは、心の貧しさをへりくだる姿とする理解です。貧しさとは低さの象徴です。ここから心の貧しさを、へりくだって相手の下に立つ姿と理解することができます。この理解で捉えるならば、柔和も同様の意味合いがあります。この言葉は、優しさと共に「低くされた者」をも意味します。そして主イエスは、ご自身を柔和なものだと言われています(11:29)。この視点で、憐れみ深い人々にも着目しましょう。あわれみ深い人の筆頭は、何と言っても主イエスキリストでありましょう。それが直接記されている言葉がヘブライ2:17です。ここで示された憐れみ深い主イエスがなされたのは、すべての点で兄弟たちと同じようになることでした。これはまさに、すべてが満たされた神でありながらも罪の世のただ中に来てくださり、民と共に歩んで十字架にかかられた主イエスのお姿です。

 ここまで主イエスの語られた幸せな人々の姿をいくつかのことをピックアップしました。これらから分かることは、主イエスが教えておられる幸いな者とは、まずもって主イエスご自身だということです。それは具体的には、高いお方であるはずの主イエスが、人を罪から救うためにへりくだって人となられ、十字架にかかられた、この主イエスのお姿です。主イエスは、嫌々ながらにそれをなされたのではありません。わたしたちを救うために、進んでそれをなされました。わたしたちを罪の悲惨から引き揚げることを、自らの幸いとしてくださったということです。それが聖書に示されたわたしたちの神であり、そして聖書に示された救い主イエスキリストです。

 

 このお方についていくということは、このお方の幸せを、わたしたちもまた自らの幸せとして生きるということです。それは今低くされて貧しさのなかにある誰かが救われるために、あえて自らが貧しくなり低くされる生き方です。低くされることにそのものが幸せだと言われているのではありません。しかし低くされたその先に、その苦しみを超える天における大きな報いがあります(12節)。この報いがあるからこそ、低くされてもなお、大いなる喜びがあるのです。この報酬は、終わりの日の裁きと関連しています。単純な言い方をすれば、終わりの日に主イエスからほめていただけることでありましょう。最後に、主イエスからほめていただくことを喜びとする。それは大変素朴な信仰ですが、そこにこそ本当の幸いがあるように思うのです。思えば、主イエスがわたしたちに向けてくださっているのも、この素朴な喜びなのです。ただ、あなたが救われて嬉しい、あなたが立ち上がってくれることがわたしの幸せだ。この損得のない素朴な喜びを実現するために、主イエスは命を捨てて十字架にまでかかってくださいました。この主イエスご自身の姿が、主イエスの教えておられる天の国の幸せの姿です。ただ、誰かが救われて立ち上がっていくことを自らの幸せとして生きること。そして終わりの日に、主イエスにほめていただけるという、素朴な報いを求めて生きること。ここにこそ人としての幸せな生き方があるのです。主イエスの示されるこのような幸せのうちに、歩んでいこうではありませんか。